Thinking In The Past.

正確な罵り方

2015.05.05

インターネットというのに触れてからずっと他者の罵る時の言葉がどうにも気になる。罵る時は言葉の選び方をちゃんと考えた方がいいと思う。

例えば馬鹿という罵り方がある。相手が馬鹿だというためには、何が賢いことで何が馬鹿なことかをわかっていないといけないが、これはなかなかに難しい。馬鹿だと言うには馬鹿であるということを証明しないと自分もすっきりしないが、その証拠をみつけるのもなかなかに難しい。

罵りの効能は自分がすっきりすること、この一点に尽きる。批判は発展を望むのもあるだろうけれど、罵りは自己の快楽しかない。だとしたら、なるべく短時間かつ少ない労力でこの快楽を得るようにすべきだろう。ちょうどいい言葉を選べないからいくら罵っても気が晴れない。

一体本当は何を罵りたいのか。これがピンポイントではまらないことにはすっきりしない。だからこそ本当に自分が言いたかった事をしっかり言葉にする訓練をしなければならないと感じる。”あなたは間違えてる”はだいたい”君の考え方が気に食わない”だし”あの人が傷ついているじゃないか”は”僕の気に入らないことをするな”だし、太宰治に言わせれば”世間が許さないのではなくて、それはあなたが許さないのでしょう”だろうと思う。

不思議なもので、人間は何に自分が怒っているのかに気づけると頭がすっきりする。よくわからないけどむかつくという状態が一番厄介で、自分が何にむかついているのか言葉にもできず、整理もできないのでいつまでたってもむかつきがおさまらない。人間は意思決定をする場所にも体力があると言われていて、他に気になることがあるとその領域が食われて、意思決定の質が落ちるのだそうだ。だからこそ早めに的確に罵って、自分の頭から余計なものを排除するべきだろうと思う。

実は一歩踏み込めば、相手を罵りたいと思う前提に自分の価値観がある。価値観がなければ怒りもない。つまり、罵りたいと思う時には自分の価値観がもろにそこに現れている。教育を受けている人は感情をあらわにするのは恥ずかしいことだという”価値観”を持っている人も多いからことは厄介になる。つまり、本当に罵りたい言葉を正確に掴むには、自分の価値観の白状が付いてくるからだ。これは客観的でありたい人にとっては堪え難い。

罵りもちゃんと正確に自分の感情を表現することができれば、時間をあまり費やさず気分を晴らすことができ、随分と経済的になる。罵られる側もしつこくやられず一回で済む。そういう意味でお互いのためにも、また社会の生産性を高めるためにも、罵る側は作法として正確な表現を心がけるべきだと思う。人生は有限だ。