Thinking In The Past.

謙虚

2015.04.27

昨日、謙虚さの話になった。私が高校生の頃は先生にいつも”実るほど頭を垂れる稲穂かな”と言われ、謙虚さを勧められた。日本のスポーツ界にとっては謙虚さはとても大事な美徳の一つになる。

ところが実際の私は謙虚でもなんでもなかった。なにしろ中学時代に全国で一番で、本職ではない幅跳びや混成競技でも日本ランキング一位だったものだから、謙虚さはほぼなかった。優越感からくる、他者への見下しもあったかもしれない。

今が謙虚かどうかはさておいて、この傲慢さがへし折られるまでに三つのプロセスがあったように思う。一つはスランプである。高校時代に肉離れを頻繁に起こしたり、また早熟型だったこともあり、急激に他の選手との差が詰まっていった。若い頃の余裕や傲慢さは他者より優位に立っているということで成り立っているから、競技場内で他者があまり私を大事に扱わなくなっていき、それと一緒に私の態度もずいぶん控えめになっていった。

もう一つは世界に出たことだ。国内では大体一番になることが多かった私が、世界に出てみて、そのトップの選手との差に驚いた。勝てないというより、全く歯が立たない。こちらは必死で十数年やって世界に出てきているのに、たかだか1、2年のキャリアで世界で勝負できてしまっている人もいる。つまり本当に才能に溢れた人とそこで初めて会って、私は特別でもなんでもないのだということを実感した。それ以来、傲慢でなくなったわけではないけれど、少なくとも実は井戸の中でしか通用しない自分という意識を持ちながら自慢した。

最後は、それでも世界で勝ちたいと思ったことだ。そうなると現状の自分には足りないものが多すぎてそれを埋める為に、常に成長の鍵はないかと探す。本人は謙虚になろうという意識はさほどないけれど、結果としてそれが謙虚に見えていることが多いのではないかと思う。そもそも勝負したいと思わなければ理想も存在せず、理想が存在しなければ足りなさも感じない。

以上の三つによって、大きすぎた自尊心が少しずつ削られていったように思う。傲慢に見えて本当に突き抜けてる人もいるから、判断は難しいけれど、いわゆるわかりやすくプライドが高くて扱いにくい人は、大体勝負をしたことがないか、勝負から下りているかのどちらかではないかと思う。井戸の外にしか高みはない。