Thinking In The Past.

法に価値観を委ねる人

2015.04.02

アエラという雑誌の中で、素人ながら問いを立ててそれに対して意見を言ってもらうというのを毎回やっているのだけれど、その中で気になることがある。あなたならこれを許しますかという問いを投げかけているのに、法的に許されないという答えが、返ってくることがたまにある。

法的に許されるかどうかと、自分の価値観からみて許されるかどうかは普通は違う。例えば私は同性婚にも、場合によっては一夫多妻制にも賛成だけれども、法的にはゆるされない国もある。法と私の価値観は違うんだなとわかった上で、私は法に遵いながら、けれどもそういった法律を変えようとしている人を応援する。飲酒ができる年齢も国によって違うわけで、つまり自分の価値観が法と同じなら自分は場所を変わるたびに価値観が変化することになる。しかも長期滞在をしたわけではなく、ただそこに降り立っただけで。

つまり法的に許されるかという問いと、あなたの価値観では許されるのかという問いは違う。もし法的に許されるのかという問いとそれが同じだと感じる人がいれば、それは個人の価値観を全体に委ねてしまった人になる。エーリッヒフロムに言わせれば”凡庸の悪”ということになろうか。ナチスドイツで残虐な罪を犯したアイヒマンは淡々と「命令されたからやりました。私は従っただけです」と繰り返した。

私はどうも全体主義に嫌悪感があるようで、それを防ぐための唯一の方法は個人の価値観が違うという事自体を社会が共有すること、明らかにすること、そしてそれを抑制的な態度で話し合うことだと思っている。選び難いものを選ぶ時に価値観が現れそれを繰り返すことにより自分が自分の価値観に気づく。個人的体験からそう思うようになって連載を続けている。

自分ではなく世間に価値観を委ねることも、わかっていてそうするのと、自覚なくそうするのではずいぶん違う。全体が正義の色に包まれるときは(そうした場合は結果として誰かが不幸になるが)、自覚なく世間の価値観や法律の正しさを絶対に正しいと受け入れる人の量が多い時に起こるのではないかと思っている。人は悪意を持って行うときは躊躇があるが、自らが正義だと信じてしかも多数で行うことには躊躇がない。

多様性がある社会とは、見た目などよりもこのような個人の価値観を教育のプロセスで練ることができ、違いを違いのまま残しておける社会のことだろうと思っている。