Thinking In The Past.

私のパフォーマンス理論 vol.8 -イメージトレーニング-

2019.02.25

イメージトレーニングと一言で言うけれども、かなり濃淡がある。イメージトレーニングが本当に習熟すると、自分の身体を動かさなくても、実際にMRIの中で自分の競技映像を見せられイメージした時に、競技中の動きに関わる領域が活性化するということが起きる。一方でなんとなく頭の中で思い浮かべているだけのことをイメージトレーニングと呼んでいる人もいる。動きと違いこれらは頭の中で起きていることなのでコーチも評価のしようがない。にも関わらず、イメージトレーニングの質は競技力向上に大きく影響する。練習量に制限がかかる競技人生の後半には特にだ。イメージトレーニングが熟達すれば、頭の中で勝つことも、負けることも、スランプに打ち勝つことも、オリンピックに出場することも、できるようになる。習熟した人のイメージトレーニングは実際に体験するのに近くなる。

イメージトレーニングだからといって自分の体験からあまりに飛躍したものを描けるかというとそれは難しい。哲学者のトマス・ネーゲルがコウモリであるとはどのようなことかという問いを立てた。コウモリは超音波を発しそれを受け取って自らの位置や進む方向を決めている。これは果たして主観的には見えたと感じているのか聞こえたと感じているのか。結局のところ、どのような主観的な体験となるのかはコウモリになってみないとわからない。これと同じように、身体においては自らの人生で主観的に得た体験の延長線上にしかイメージトレーニングは存在しない。人生初めての五輪で失敗する選手はわけがわからないまま終わったとコメントすることが少なくないが(私もそうであった)、それは本当にイメージの上でも初めてだからだ。経験したことがないことを頭で繰り返すことはできない。イメージトレーニングは現実から切り離すことはできない。

もちろん、誰でもぼんやりとは自分が五輪に出場した姿をイメージすることはできる。小説も映画も演技も、誰かの体験を頭の中で自分で作り直したものだから、それが近いのではないかという指摘もある。ただ私は心情はある程度表現できても身体の細部のイメージを浮かべるのはきっかけになるような体験をしなければ難しいと思う。私は、陸上競技場で同じ方向で回っていたので、右足から左足への体重移動は容易にイメージができたが、左から右への移動のイメージが苦手だった。深いイメージトレーニングは主観的体験から出発する。

人類がイメージを共有して伸びるということも起きる。これはこれで一つのテーマになり得るぐらい興味深い。1964年の体操を見てみると驚くほど技術がシンプルだ。現在ではとてつもなく複雑な試技を選手が行うようになっているが、誰か一人だけができるようになっているのではなく、多くの人が拮抗して競い合っている。人間は誰かが実際に成し遂げたことを目にすると、卓越者にとっては自分のことように具体的にイメージすることができ、一定の人間が実際に体現することができるようになる。ここ30年の日本のサッカーのレベル向上は著しいが、私はテレビでJリーグ、および海外のプレイをみることができるようになったのが少なからず影響しているように思う。

私のイメージトレーニングは中学生ぐらいから始まった。その当時はイメージトレーニングと呼ぶことすら知らなかった。練習前に颯爽と走り抜ける自分をイメージしてから走り出すことをなんとなく始めた。また試合前に、試合でどんな感じで走るかをイメージしておいて試合に出るようになった。陸上競技はリハーサルの繰り返しで、つまり頭の中で一度行ったことを身体でなぞることが練習になる。そして試技を行った結果、違っていたのか合っていたのかを評価し、違っていたならなぜ違っていたのか、どうすれば合うのかを頭で考え修正する。この繰り返しで選手は強くなるが、一番はじめにこのように動こうというイメージがなければ、評価するべき基準がないようなものだから、試技がうまくいったのかどうかをタイムで測るしかない。しかしながら、タイムは体調や環境に影響されるので高いレベルでの評価基準としては適切ではない。

試合に関するイメージトレーニングは、詳細までイメージが湧くし、湧かなければうまくいかなかった。例えば、試合当日朝起きて自分はどんな気分で、地面に着いた時の感触はどうなのか。試合会場に行くバスは何色で、自分がどこに座るのか。グラウンドではどんな動きをしていつコーチに話しかけられるのか。試合に出て、緊張する中どこに家族の顔があるのか。カメラはどこか。コーチはどこか。ライバル選手はどのような表情をしているのか。ゴールして、ガッツポーズをして、その時に何が見えるのか。インタビュアーの最初の質問は何で、自分はどう答えるのか。その時自分の手は握っているのか開いているのか。涙はいつ出て、それを拭うのか拭わないのか。このようなことを詳細に渡りイメージしていた。

試合会場に入る前にだいたいのことはイメージの中で終えておいた。当日はじめて出くわす状況がないように。当日は雨が降ったり、晴れたり、様々な状況に適応したシナリオをピックしていっていた。これは最初のうちはうまくできなかったが、イメージトレーニングを繰り返すことで徐々にクリアに頭の中で描けるようになった。また飛躍し過ぎたイメージトレーニングはうまくいかなかった。自分が精一杯ジャンプして手の届く範囲のイメージしか人はありありとは描けない。遠過ぎたイメージを繰り返してもリアリティがなく、自分の中で潜在的に否定をしてしまう。願望を描くことと起こるべきことをイメージするのは質的に違った。

余談になるが、ネガティブなイメージから抜けられない選手はこのイメージトレーニングが自分でコントロールできず、しかも過去のよくない体験をあたまの中で繰り返してしまっているように思う。あたまの中で繰り返せばそれは積み重なって強化されてしまい余計に繰り返しやすくなってしまう。前向きな選手は現実を正確に捉えているのではなく、都合よく捉えている。うつ病患者は、健常な人よりも現実を正確に捉えていることを示した研究もある。イメージトレーニングは過去を都合よく編集し、自分にとってありたい未来を描く能力と言い換えることもできる。

さて、具体的なイメージトレーニングのやり方だが、実は私にもわからない。もしアドバイスをするなら、自らの情動をしっかり繋げることではないかと思う。私はメダルを取る前にイメージトレーニングでメダルを取って泣いたことが少なくとも十数回はあるが、金メダルを取るイメージトレーニングではどうしても泣けなかった。金メダルを取るシーンは私にとって、音もなく色もついていない映画のようでリアリティがなかった。銅メダルのイメージしか描けないから銅メダルしか取れなかったのか、それとも実際の自分の限界をリアルに反映したものしかイメージできないから銅メダルだったのかはわからない。一つ言えるのは、主観的体験は情動によって強化されるということだ。もう一つ大事なことは、自分の体を多少動かしながらその状況を表現することは効いた。人間の記憶やイメージは頭の中だけではなく、身体がトリガーになって引き出されていることもずいぶんある。だから身体を使いリードしながらイメージを作り上げていくわけで、これがルーティーンが有効とされる根拠だと思っている。

私は手前味噌だが、言語化が得意だと言われていて、それにはこのイメージトレーニングが影響しているように思う。人よりも身体イメージの解像度が高いらしい。私はこの能力は「没頭+体験+繰り返し」で強化されると思っているが、この能力と言語化能力が関係しているように感じている。

付け加えて今生来のブラインドの選手がイメージトレーニングを行うということにとても興味を持っている。健常者は視覚優位のイメージから離れられないが、もしそれを超越できるならそのイメージはどんなものなのかを知りたい。