Thinking In The Past.

正しさと戦い方

2016.03.26

例えばとある柔道家が足を痛めているときに、対戦相手としてはその足を攻めて勝つのは戦い方としては正しいことになる。そのほうが勝率が高い。一方で、相手の弱みをつくということは人として、さらには柔道家として正しいかと聞かれるとよくわからない。スポーツの現場では戦い方として有効なことと、人として正しいことは往々にしてずれる。

こういった矛盾の中、どうすべきかを人は考えていく。より正しさを追求する人もいれば、そうは言っても現実的に戦って勝たないと、と戦い方を優先する人もいる。ここで重要なのはそれが出来ると知っていて敢えてするのかどうかという点だろうと思う。

人間の評価も同じようにこの二つの観点から考えられる。それは人として褒められたものかどうかわからないが、戦略、戦術としては見事だったということもあるだろうし、戦略、戦術ともに稚拙だったが人としては正しいことをしたと感じられることもあるだろうと思う。戦い方と正しさが全く両立している人はなかなか見ない。歴史上を見てもそうだろうと思う。

ところが、戦い方と正しさがごちゃまぜになる人が時々いる。特に正しさに引きずられる。あの人はいい人だから戦い方も立派だと表したり、あの人は悪い人だから戦い方もまずかったとなる。さらに言えばあの人はバカだと言っているが本当は”あの人がやっていることが正しいとは思えない”なのに、それが能力と混濁してしまっている場合もある。その場合本人も混濁していることに気づいていない。考え方が違う人の能力を低く見積もると、敵に回す場合でも味方にする場合でも、登用も配置もまさに戦い方も間違える可能性が高くなる。

また冷酷に戦っているように見える人も、敢えてそうしているだけで価値観を聞いてみるととても正義感に溢れていたりする。ただ現実的に力をえないと解決がされないから、勝負に徹しているだけだったりする。”そうすべき”と”そうするしかない”が違うときに、人の価値観は練られていく。悩ましい決断に理解が示せない人は、悩ましい決断をするべき立場にたったことも、挑戦して悩ましい決断に面したことがないように見える。

自分と同じ価値観の(ように見える)人が優秀とは限らない。目の前に金メダルがありライバルは足を痛めている。そういう状況に面した時、自分が大事にしているものは何かが問われる。