Thinking In The Past.

承認を求める対象

2017.10.18

[:ja]承認欲求は時々厄介者扱いされるが、自分の人生を振り返っても必ずしも悪いことばかりではなく、そのおかげで頑張れることも多々ある。ただ、承認欲求によって守りに入ってしまうこともあり、その違いを考えてみるとそれは対象の差なのではないだろうか。

私は陸上の中でさらにマイナーとされるハードルを飛びながら、ずっと野球や、サッカーが羨ましがっていた。お金持ちになり、有名になり、アナウンサーと結婚なんかしてていいなあと思っていた。とにかく広島からみていれば華やかに見えた。

大人になり、とある人と食事をした時に、ハードルのものすごくマニアックな技術と工夫の話を興味をもって聞いてもらったことがあった。そこで言われたのは”やっぱり孤独でシビアだから陸上の世界が一番いいですね”だった。ああ、別に有名にならなくてもみてくれている人はいるんだと、なんだかほっとしたのを覚えている。

何かをやり続けた職人や、ある本を書いた著者など、人生で聞いたことがなかった人が尊敬されているコミュニティがある。そこでは世間一般の評価とは違う軸で、いやむしろ何かに特化し世間からそっぽを向かれている人の方が評価されていたりする。私は恥ずかしながらそれまで、そのことを知らなかった。だから、ずっと世間の方を見ていた。

承認欲求は対象により善にも悪にもなりうる。一体誰に、どのコミュニティに承認されたいのかの設定によって人生は大きく変わる。地元のクラスコミュニティの中で認められたければそれなりの、世間に認められたければそれなりの、ノーベルプライズの審査員コミュニティで認められたければそれなりのやり方がある。承認欲求で守りに入るタイプは、今いる場所の承認を求めている。一歩先の世界で尊敬される姿勢は今のコミュニティから見ればバカに見えることもある。

私の人生の目的は、尊敬する人が本気の話をしてくれることで、これを失うことが一番怖い。難しいのは、いくらお金を持っていても、権力を持っていても、相手が本気で話してくれるとは限らないことだ。賢い人は話はしてくれても、この人が理解できるだけの素養があるかどうかを見極め、手加減する。だから、こいつに本気で話してもいいかと思われる状態でいたいし、また少しでも理解できるような能力を高め続けていたい。

承認欲求は対象の程度に集約させる効果がある。政治家が民度を超えられないように。そして全ての人が認めてくれるなんてありえない。対象をどこにするのかによって、自分の程度も決まる。[:]